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会社所在地: 北九州市小倉北区堺町1-2-16 十八銀行第一生命共同ビル2F

代表プロフィール

QORDiAグループ 代表 武村欽也(たけむらきんや)

行政書士(許認可専門) 武村欽也(たけむらきんや)

小学校から高校までは自宅(福岡県北九州市小倉南区)からすぐのところでした。

 

大学時代~商売の基本を実体験

 

花の都、東京で「ひとり暮らし」がしたかったんですね。
福岡市内の大学よりも東京の大学に行きたくて・・・
日本大学に入学しました。

東京と思ったら、1年生は「静岡県三島市」で過ごしました。
1階が牛小屋でした。二食賄い付きの下宿でした。
3畳の部屋で、寝たら足が廊下にはみ出していました。下宿生は全部で7人でした。
下宿の窓からは「富士山」が見えていましたね。毎日(曇って見えないときがありましたけど)富士山を眺めることができちょっと贅沢でしたね。
いつも牛の鳴き声で起きていました。

2年生から東京の杉並区に住んでいました。
学生時代はたくさんアルバイトしました。

特に、「某大手スーパー」のテナントで、あさり、はまぐりなどの貝類販売の水産会社の勤務が一番長かったですね。

水産販売会社ですが、「親方」と呼ばれる社長と経理のおねえさん、販売主任だけの小さな会社で、
あとはわたしのような学生アルバイトが数名いました。

朝早くから、親方と一緒に千葉の浦安の貝の問屋さんで仕入れ、それをトラックで運び、販売していました。

努力を認められてテナントの1店舗を借りて営業するようになりました。
いわゆる「ひとり立ち」ですね。

初日は仕入れも経験しました。売れると思い込みたくさん仕入れました。結局、雨でお客様の来店が少なく、たくさん余ってしまいました。
生もののため、結局は廃棄するようになり、初日は大赤字でした。

それからというものは、

天気予報を見て、また地域の小学校や中学校の運動会などのイベントなどを調べたりしました。
販売目標を立て、どのくらいの量の貝類を仕入れたらいいのかを計画しました。
売り方の工夫もしました。毎回毎回売上も上がり、また廃棄もなくなりました。
売上から貝類の仕入れ代金とテナント料、トラックのレンタル料、燃料代を差し引き、残りはその水産販売会社と山分けでした。
今、考えたら、その時代に商売のノウハウを実体験で学んでいたかもしれないですね。

初めての就職

地元に帰りました。
地元のタクシー会社に就職しました。

今では保有台数日本一の会社になりました。日本全国にあります。
ここでもオーナー社長に「商売の基礎」を叩き込まれました。
自宅通勤でしたが薄給のため、弁当持参でした。
6年間の在職でしたが、すごく勉強になりました。
でも地元に就職したとはいえ、転勤が多く宮崎・鹿児島での勤務が長かったです。

オーナー社長から可愛がられ、いろんな部署を経験させられました。
当時はやっと仕事を覚えてこれかというときに部署を変わるということに不満がありました。
あとになって考えるといろんな部署を経験させ幹部候補として育てたかったようでした。

不満が募り、鹿児島勤務の際に就職情報誌を見たら、北九州市にテーマパークができ
幹部候補を募集していました。
両親が病気との嘘をつき、お休みをいただき、中途採用試験に挑みました。

結果、1,000名近い応募者に対し50名弱が採用されました。
3次面接で合格して地元に戻ってきました。

二度目の就職

テーマパークではお土産販売担当から集客担当まで主に営業畑を歩んでいきました。

団体のお客様や修学旅行の誘致などをメインにしている「営業部」勤務が長かったです。

お土産販売担当時代は「販売士2級」も「日商簿記2級」も取得しました。

JR料金の仕組みなども勉強して「旅行業取扱主任者」資格を取得しました。
これは「資格マニア」ではなく、担当している部門で「プロ」になりたかったんです。
この「プロ」を目指すきっかけになったのは初めての就職先でオーナー社長がいつも口にしていた言葉です。
「その道のプロになれ!!」・・・これがキーワードですね。

その結果、営業努力が認められ、中国四国エリアからの集客責任者(広島支店長)に抜擢。
社長賞もよくいただいておりました。

広島支店は例年予算達成していました。支店長だけが頑張ったのではありません。
わたしはコンダクターになっただけです。
活躍(演奏)したのは支店メンバーでした。総力の結集でしたね。

民事再生法適用申請って・・・?

ついに民事再生法適用申請!!と新聞とテレビのニュースとネットで知りました。

当時「民事再生法適用申請」がどういうことなのか全くわかりませんでした。

いわゆる「事実上の倒産」でした。
部下や同僚も去って行ったり他の部署に異動させられました。
成績が良かった広島支店も閉鎖になりました。
閉鎖になり、本社に戻され「営業部長」に抜擢されました。

2年後に「単年度営業黒字経営」が「営業部長」に課せられた課題でした。

朝早くから夜遅くまで働きました。「営業部長」自ら営業の先頭にたち集客に全力を傾けました。
約束の2年後に「単年度営業黒字」の見込みが立ったのを機に「会社都合」にて退職しました。
達成感と充足感を感じての退職でしたので、サラリーマンとしての悔いはなかったですね。

49歳からの挑戦

転職はしませんでした。
もうサラリーマンは結構‼という気持ちが強かったです。
なんか商売をしようと思っていました。

実は、サラリーマン時代に「争続問題」の悲しい体験をしました。
あの頃に「知識」があればと思うことがありました。
同じ悲しみ、苦しみを相談してあげることができたらと思い、「行政書士」受験をしようと思いました。

法学部出身ですがなんら法律を勉強した記憶がなかったです。学生時代にはあさり、はまぐりを売ることについて猛勉強していたからですね。
49歳からの受験勉強は結構辛かったですね。若い方々と混じって「大原」に通いました。

1年間、失業手当をいただきながら猛勉強したら合格するという甘い考えは1年後の受験で思い知らされました。

2年目は退職金を生活費に充当し、せっせと勉強しました。合格に自信がありましたが、こんな呑気な勉強では合格しませんね。

3年目は退職金もわずかになったため、午前中のみ早朝バイトをするようになりました。
早朝バイトは朝3時に起床しなけれいけなかったですね。
4トントラックや2トントラックで早朝から昼前まで「豆腐類」の配送ドライバーでした。
朝3時起床で朝4時から午前11時までの運転でした。
その仕事を終えて帰宅すると疲れから受験勉強すら十分にできなかったんですね。
やはり「熱い思い」が必要なんです。

午前11時に帰宅し、シャワーで汗を流し、即仮眠でした。

ふとんに入ればすぐに眠りにつく癖がつきました。
3時間の仮眠後、軽食をたべ、近くの公立大学図書館で閉館時間ぎりぎりの夜9時まで勉強ですね。
そして帰宅後1時間ほど勉強し、夜は2時間ほどの仮眠でした。1日2回睡眠で1年間頑張りました。

今、思えば「何がなんでも必死」でした。

行政書士資格取得まで3年かかりました。

オールドルーキーを目指す

平成24年10月1日に開業しました。
開業後の3ヶ月間の売上は3万円、4ヶ月目にはとうとう0円でした。

開業時はこんなもんです。
睡眠時間を削り行政書士資格を取得して・・・
そして開業してこんな売上でした。

そんな時は学生時代や前職での経験が活かされたようです。
民事系行政書士よりも「許認可系行政書士」に方向転換でした。

許認可系でも「行政書士」の王道と言われている「建設業許可」業務をメインとするようになりました。
建設業許可業務を手掛けるようになり、わからないときは県庁や県土整備事務所に何度も足を運び
申請書類作成だけではなく、関連法令の読み込みなど、とても奥深くまで徹底的に勉強しました。

ホームページも立ち上げ、
今では、おかげさまで年間ご相談件数も400件を超えています。
年間許可取得件数も40社超もあり、件数でいえば、福岡県内トップクラスですね。

福岡建設業許可サポートセンターでは、関与したお客さまには、マッチングサービス(元請さんへのご紹介や許可業種の違うお客さまとのコラボなど)、
また公共工事を希望されるお客さまには、お客さまの会社案内やお客さまの名刺を持ち、公共施設の発注窓口へのセールスのサービスなどをしています。
それで受注増加になれば嬉しいです。
業種は違いますが、長年の営業経験を活かし、お客さまに少しでもお役に立てるようにしております。

許可を取得するだけの建設業許可専門の行政書士事務所ではありません。

好きな言葉

焦らず、慌てず、最後まで諦めず!!です。

経営理念

1.何事に対してもいつも一生懸命!!
2.お客さまの利益を最大限に!!
スピードと品質を追求しながら誠心誠意、お客様のことを第一に考える行政書士法人を目指します。

尊敬する人物

わたしの父です。平成12年3月のホワイトデーに亡くなりました。
他には「松下幸之助」です。

所属団体

・日本行政書士連合会 福岡県行政書士会 北九州東支部
・国際ロータリー2700地区小倉東ロータリークラブ
・一般社団法人北九州中小企業経営者協会

どうぞよろしくお願いします。

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